目次
はじめに
「老害」という言葉は好きではない。なにも人は歳をとって害になるわけではないだろう。害のある人間が歳をとっただけだ。
ただ、思わず使いたくなるのもよくわかる。
久しぶりに「朝まで生テレビ」を見たときのことだ。番組を見たのは30年ぶりくらいだろうか。学生の頃はよく見たものだが、仕事を始めてからは興味をなくしていた。
たまたま深夜にテレビをつけたのだが、司会の田原総一朗氏の姿に驚いた。
とにかく絵にかいた「老害ぶり」なのである。
「違う!!」と怒鳴り机をバンバンたたく、そして人の話を遮り、延々と自分の話をする。その話が「宮澤さんがこう言った」とか「竹下さんがこう言った」とか、昭和の昔話なのだ。(ちなみに昔の総理大臣)
しかも、その話が議論と関係のない話だったりする。何も聞いていなかったのか・・?
パネラーは若い世代ばかりなので、ただ長老の独演会を拝聴するしかない。
これを「老害」と言わずして何というのだろう?いや、見事な老害ぶりとして称賛されるべきか。もはや「老害の形式美」に昇華されている。
テレビ局も問題を感じているのかもしれないが、番組の功労者に対し「降板です」とは言いにくいのだろう。
しかし番組の寿命はとっくに過ぎている。晩節を汚さず引退したほうがよいのではないかと思った。余計なお世話だろうけど。
前置きが長くなったが、テレビの話がしたいわけではない。話はシェイクスピアの「リア王」についてである。
リア王も老害のような人物だ。彼の怒りはすさまじく、そのスイッチがどこにあるのか見当がつかない。変なところを押したら大変だ。娘のコーディリアが、そのスイッチを押してしまったばかりに、悲劇を招くことになるのだが。
まずは、どのような物語か「あらすじ」をご覧いただきたい。
あらすじ
シェイクスピアの悲劇「リア王」は、老齢となったブリテンの王が領土を三人の娘に分け与えようとする場面から幕を開ける。
領土分割を決めるにあたり、リア王は娘たちに自分への愛情のある言葉を求めた。
長女のゴネリルと次女のリーガンは、美辞麗句を並び立て、無事領土を手に入れる。
次は三女のコーディリアの番だ。
ところが彼女の口から出たのは「申し上げることはございません」とそっけない一言だった。
その真意は「うわべだけの言葉では感謝の気持ちは言い表せない」ということであったが、年老いたリア王はそうは解釈しなかった。
「なんと薄情なやつだ!お前のようなバカ娘には国はやらぬ。この国から出ていけ!」と激怒。
それを見ていた忠臣ケント伯は、あわてて王を諫めようとするが、怒りが飛び火し、ケントまでが国外追放される始末だ。
怒りの発火点が異常に低い王様である。
その日は、フランス王とバーガンディ公がコーディリアを妃にしたいと王宮を訪れていた。
バーガンディ公はコーディリアが持参金を持たない身となったことを知り、婚約の申し出を辞退する。
ずいぶん正直な男だ。
一方、コーディリアの誠実さを理解したフランス国王は、彼女を妃としてフランスに迎え入れることにした。
ゴネリルとリーガンは、些細なことで怒りを爆発させる父親を見て、不安を募らせる。
王は一番かわいがっていたコーディリアを、簡単に放り出してしまった。こんな調子ではいつ自分たちも王の気まぐれな発作に付き合わされるか分かったものではない。
「私たちも、何か手を打っておきましょう・・・」と、ひそひそ声で相談するのであった。
所変わって、ゴネリルの館である。
隠居したリア王はゴネリルの館に滞在しようとやってくる。
一度は追放されたケント伯も、別人になりすまし、再び王に仕えようとやってきた。
こんな老人に、忠義を尽くすケント伯も、どうかしていると思うが・・。
リア王は、ここでも相変わらず尊大に振舞う。王が引き連れてきた100人の付き人のふるまいも粗暴極まりない。
ゴネリルは腹を立て、王を無下に扱い始めた。そして100人の付き人を勝手に50人に減らしてしまった。
怒ったリアはゴネリルの屋敷を後にし、もう一人の娘リーガンの屋敷へと向かう。
ところがリーガンは面倒を避け、夫のコーンウォール公と共にグロスター伯の屋敷に逃げてしまった。
コーンウォール夫妻の行先、グロスター伯の屋敷でも不穏な動きが進行していた。
グロスター伯にはは二人の息子がいた。一人は嫡子のエドガー、もう一人が庶子(妾に生ませた子供)エドマンドだ。
エドマンドは庶子であることから相続権がないことに不満を持っていた。
そこで、彼は手紙を捏造し、「父上の命を兄上のエドガーが狙っていますぞ!」と、グロスター伯に信じ込せる。
一方、エドガーには「お父上が何やら大変なお怒りである。今は身を隠した方がよい」と吹き込んだ。
そんな折に、コーンウォール公とリーガンの夫妻が屋敷にやってきた。
これはチャンスと、悪知恵の働くエドマンドはもう一芝居うつことにする。
屋敷内に隠れていたエドガーに「父上が兄上のお身柄を狙っている!」と嘘をつき、エドガーを逃亡させる。一方刀で自分の腕に傷をつけ、「エドガーに切り付けられました!」とグロスター伯やコーンウォール公に吹聴したのだ。
その結果、エドマンドは兄を追放し、父親の信頼を得て、更にコーンウォール公の家臣となる。
万事が順調である。
リア王もリーガンの後を追って、グロスター伯の屋敷に到着する。
リアはゴネリルから受けた冷たい仕打ちをリーガンに訴えるが、彼女は姉の味方をする。
二人が言い争いになる中、姉のゴネリルもやって来て、妹に加勢する。
うるさい女二人から攻撃されたら、リアも堪らない。
ゴネリルに「お前とはもう二度と会うことはないだろう」と吐き捨て、100人のお供と共に、リーガン邸に向かおうとする。
ところがリーガンも「私の家に行くならお供は25人に減らしてくださいな。いや一人にせよ必要ないでしょう?」とにべもない。
100人のお供がとうとうゼロに減らされてしまった。
お供を減らされたくらい、別にいいじゃないかと思うのだが、王としてのプライドが許さなかったのだろう。娘たちからひどい仕打ちを受け、怒りで気も狂わんばかりのリア王は、屋敷を飛び出してしまう。
屋敷を飛び出したリア王は、嵐の中、道化と共に荒野をさまよう。道化との会話は支離滅裂で、ほとんど正気を失っている。
忠義者のケント伯は荒野でリアを見つけ出し、嵐を避けるため小屋に退避させた。
しかし、小屋にはすでに先客がいた。逃亡中のエドガーだ。
彼は身を隠すため、ボロを着た狂人のフリをし、名前をトムと名乗っていた。
そこに、王を捜していたグロスター伯もやってくる。親子の対面だが、彼はボロを着たトムが自分の息子エドガーだと気づかない。
グロスター伯はひとまず百姓家にリアを退避させることにした。
更にリアの身の安全を守るため、彼をドーバーまで連れていこうと、ケント伯に託す。
ドーバーには、フランス軍がブリテン侵攻のため集結していた。
実はグロスター伯はフランス側と密通しており、ドーバーにいるコーディリアにリアをあずけようと考えたのだ。
ところが、人の好いグロスター伯は、密通の手紙を息子のエドマンドに打ち明けてしまう。
秘密を聞かされたエドマンドは、コーンウォール公に取り入るため、告げ口をする。
父親が失脚すれば、自分がグロスター伯になれる。出世のチャンスだ。
グロスター伯の裏切りを知らされたコーンウォール公は激怒。
彼はフランス軍の攻撃に備えるため、ゴネリルとエドマンドをアルバニー公の屋敷に向かわせる。
そして裏切り者のグロスターを捕らえ、その両目をえぐってしまった。
いくらなんでもやりすぎだろう!
周りで見ていた召使もそう思ったらしく、義憤に駆られ、主人のコーンウィール公を切りつける。
やがて公はその傷が元で命を落とすことになる。
両目を失ったグロスターは自分の屋敷から追い出されてしまう。そして信頼していたエドマンドに騙されていたこと、エドガーが冤罪だったことをようやく悟るのだった。
夫のアルバニー公にフランス軍へ備えを促すため、屋敷に戻ったゴネリルだったが、夫と言い争いになる。
アルバニー公は、リア王への非道な仕打ちを耳にしていたのだ。
「ひどい女だ!」と妻を責めるが、ゴネリルも「ふがいない夫」と言い争いになる。
追い打ちをかけように、コーンウォール公の死と、グロスター伯が目をえぐられ、屋敷から追い出されたという報せが届く。
アルバニー公は、実の父親であるグロスター伯を裏切ったエドマンドへ怒りを募らせる。
一方、盲目となり、家も失ったグロスター伯は荒野をさまようが、運よくエドガーと出会う。(相変わらず彼を自分の息子と気づかず、狂人トムだと思っている)
二人はコーディリアのいるドーバーに向かうが、その途上、グロースター伯は崖から飛び降りて自殺を図る。
彼は気を失うものの、エドガーが案内した崖は、実は安全な平地だったため、一命を取り留める。
エドガーは、たまたま通りかかった通行人を装い、眼を覚ました父親に「あんな高いところから落ちて、死ななかったのは奇跡だよ。もう何も恐れることはない」と励ます。
「リア王」の中で、最も悲しく、美しい場面だと思う。
やがて二人の前にリア王が現れる。すでに王は狂気の中にあり、グロスター伯が誰かもわからない。
そこに、フランス軍の侍者たちが現れる。コーディリアの要請を受け、彼らも王を探していたのだ。
本当に世話のかかる爺さんである。
リアはフランス軍の陣地に保護され、コーディリアとの再会は果たす。
リア王は娘へのひどい仕打ちを悔い、許しを請う。
こうしてようやく二人は和解することができたのだった。
さて、グロスター伯とエドガーの親子だが、今度はゴネリルの執事オズワルドと遭遇する。
(それにしてもエドガーは、次から次に人とばったり出会う。そんなにイギリスは狭いのか?)
オズワルドは女主人のゴネリルから、手紙をエドマンドに届けるよう言付かっていたのだが、一方リーガンから「グロスター伯を見つけたら殺すように」とそそのかされていた。
オズワルドはグロスター伯を殺そうとするが、逆にエドガーに打ち取られてしまう。
瀕死のオズワルドはゴネリルから預かった手紙をエドガーに託し、息絶える。
主人から預かった手紙を、敵に託すとはアホなのか?
しかし死に直面しても、仕事を成し遂げようとするのだから、大した忠義である。
エドガーも「悪党ながらも、よく仕えた!」と感心してみせるものの、手紙を届ける程お人よしということはなく、やはり封をあけてしまう。
手紙にはゴネリルからエドマンドへの熱い思いと、夫アルバニー公に対する謀略がしたためられていた。
不倫の証拠をつかんだわけだ。旦那に言いつけなければ・・。
エドガーは手に入れたゴネリルの手紙を携え、ドーバーのブリテン軍陣地に赴く。
夫のアルバニー公に手紙を渡し、「戦いの勝利の際にはラッパを鳴らし、私をお呼びください。手紙の内容を証明してみせます」と告げ、その場を立ち去った。
どうやらラッパを吹けば、エドガーが飛んできてエドマンドの罪を証明するらしい。
そうとは知らないエドマンドは、ゴネリルとリーガンの両方と不倫関係となり、どちらを取るか思案する。
これから戦争だというのにのんきなものである。
戦いはブリテン軍の勝利で終わり、リア王とコーディリアは捕虜となる。
アルバニー公は二人の処遇について、寛大な処置をとろうとするが、エドマンドは強く反発する。
まるでアルバニー公と同格であるかのように振舞うエドマンドに、アルバニー公は「貴殿を兄弟として認めた訳ではないぞ」と諫め、二人は対立する。
しかしリーガンはエドマンドの地位の正当性を主張し、彼と結婚し、すべてをささげると宣言する。
それを聞いていたゴネリルも心穏やかではない。彼女もエドマンドと密かに関係を結んでいたのだ。
二人はエドマンドをめぐって言い争いになる。
しかし、アルバニー公は突如エドマンドを反逆罪で逮捕してしまう。そして「エドマンドの反逆を告発する者は、名乗りを上げるように」と宣言する。
ラッパの合図と共に鎧姿の男が現れ、エドマンドとの決闘裁判に挑む。
戦いに勝ったのは鎧の男だった。
瀕死のエドマンドを前に、男は兜を脱いで自分の正体を明かすが、そこにあるのはエドガーの姿であった。
彼は屋敷を追われて狂人になりすました境遇や、父グロスター伯が亡くなったことを明かす。
ところが、そこにゴネリルとリーガンの死の報せが届く。
嫉妬に狂ったゴネリルがリーガンに毒を盛り、そのゴネリル自身も短刀で命を断ってしまったのだ。
次から次に事件が起こり、あわただし中、今度はケント伯が現れる。
リア王に最後の別れを言いに来たと言う。
アルバニー公も「何もこんな最中に・・」と思っただろうが、言われてみれば「リア王はどこだろう?」といまさら気がついた。
「言え!リア王は、コーディリア姫はどこにおいでか?」と死にかけているエドマンドに問う。
エドマンドもせめて最期は正しい行いをしたいと思ったらしく「王と姫の命を奪えと家臣に命じました。さあ、早くいかねば助かりません!」と答える。
しかし、エドガーが救出に向かうも時すでに遅く、コーディリアは暗殺されていた。
リアは娘の亡骸を抱きながら現れるが、口から発する言葉は、もはや嘆きの言葉しかない。
アルバニー公は全権力をリアに返還しようとするが、リアに生きる力は残されていなかった。彼は絶望の中、息絶えた。
感想
「リア王」では二つの家族の物語が同時に進行する。メインはリア王親子、サブはグロスター伯爵親子の物語だ。
リア王もグロスター伯も共に、誠実な子供を捨て、よこしま心を持つ子供を取り立てたことにより破滅の道へ進む。
二人は善と悪を取り間違えた愚かな父親として描かれる。
一方、大きな違いもある。
リア王は傲慢な老人だ。コーディリアの誠実さを理解しようともせず、怒りに任せて愛娘を追放する。読者はこの理不尽な怒りがどこからやってくるのか理解ができず、リアに共感することができない。
また、現役を退いた後も、王としての不遜なふるまいを改めようとせず、ゴネリルとリーガンからひどい仕打ちを受けるが、これも非はリアにある。
王は正気を失い荒野をさまようが、姉妹がだまして追放したわけではなく、自ら飛び出していったのだ。
つまり、リア王の悲劇は自ら招いたものであり、ここには因果応報の理屈が成り立つ。自業自得というやつだ。
一方、グロスター伯は、善良な人物として描かれる。彼の悲劇は息子のエドマンドにだまされたことに起因しておりグロスター伯の言動によるものではない。(もちろん浮気をして庶子を作ったという点を考慮すれば、罪がまったくないとは言えないが、そこは目をつぶろう)
エドガーはコーディリアと違い、父親から追放された訳ではない。邪悪な弟にだまされ自ら逃げて行ったのだ。グロスター伯には息子の無実を確かめる術もない。
グロスター伯は、彼と同様、視力を失ったオイディプス王や旧約聖書のヨブのように、本人のあずかり知らぬ理由に翻弄されたのであり、因果応報では説明しきれない理不尽さを体現している。
二つの家族に共通するテーマをまとめると、以下のようになる。
- 双方の家族に、善と悪を体現する子供がいる(善:コーディリア、エドガー 悪:ゴネリル、リーガン、エドマンド)
- 善を体現する子供は、自己主張しないため、その善性がわかりにくい
- 悪を体現する子供は、甘言や偽りで、善を装う
- 父親は善を悪と間違え、退けてしまう。一方悪には簡単にだまされ、受け入れてしまう
- 父親は悪により、すべてを失い、荒野をさまようことになる
- 父親は善に気づき、和解する
次に相違点について、リアとグロスターを軸にまとめる。
- リア王の場合、悲劇は自らの傲慢な性格に起因する。いわば自業自得
- グロスター伯の場合、悲劇は息子の裏切りという外部要因からもたらされる。いわば運命
では、なぜシェイクスピアはリアのメインストーリーに、グロスター伯のサブストーリーを加えたのだろう?
確かにリアの物語だけであれば、王が自らの愚行により悲劇を招くといった、すっきりした物語になっただろう。しかし、こでだけでは教訓めいた寓話のようになってしまい、何か物足りない。自業自得の物語では「悲劇」になりえないのだ
悲劇を完成するためには、自分の意思ではどうにもならない外部要因が必要になる。
因果で成り立つリアの単調な物語を補完するため、外的要因により悲運を定められたグロスターの物語を加えることにより、悲劇の効果を最大限に高めたと考えてはどうだろう。
そして二つの物語は相反する父親の資質によって引き起こされたにもかかわらず、同じような道筋をたどって、悲劇的な結末を迎える。
つまり人間が世界に対し、どういう態度で臨もうとも、その結果は人間のあずかり知らぬものに収斂してしまう。
「悲劇」とは「何故理不尽な世界で、人間は苦しまなければならないのか?」という問いに発する物語なのだ。
ストーリーの展開には影響がないと思い「あらすじ」では、道化の存在をほとんどカットしてしまったが、物語の多くがリア王と道化の会話に費やされている。
道化は第一幕第四場のゴネリルの屋敷の場面から登場し、第三幕第六場で「それなら俺は、日が昇りきったら、寝かせてもらおう」と語るのを最後に姿を消す。その後はどうなったのか、説明は一切ない。
道化の言葉は一見支離滅裂であるが、正鵠を射る言葉も多い。
リアは王位を失った後も、自分のおかれた立場を理解せず、今まで通り王であるかのように振舞う。しかし道化はリアにはもはや何の力もないことを知っており、それをシニカルに揶揄する。
リアに見えていないものが、道化には見えているのだ。リアが失った理性を象徴するものが道化と言えそうだ。
そして道化の言葉の多くが王に向けられているため、王が道化という仮象を使い自問自答しているようにも見える。
リアは次第に自分が何者であるかを見失っていくが、道化との会話により、かろうじて理性を保とうとしている。道化との会話はリア自身の内部で起こる、狂気と理性の葛藤なのかもしれない。
道化が途中で消えてしまうのも、リアの理性が完全に消失したことにより、道化もどこかに消えてしまったと解釈できる。
人間は自己の内部に住む「道化」と会話し、自問自答することで、自分が何者であるかを知ろうとするのだ。
また、リア家とグロスター家の物語の相似から、リアと道化の関係は、グロスターと狂人トムの関係に対応する。
そして狂人トムに扮するのは息子のエドガーだ。そうであるなら道化の実態はコーディリアと考えられる。
確かにコーディリアが追放された後に道化は登場し、道化が消えてから再びコーディリアが現れる。二人が同時に登場する場面はない。
コーディリアと道化が同じ役割を演じているとはどういうことか?
リアにとって、この二人が意味するものは「自分の傲慢さによって失われたもの」ではないだろうか。
最初リアは身勝手な癇癪によって大切なコーディリアを追放する。つまり本来「愛するべきもの」を失ってしまう。
その結果、内なる「道化」との会話により正気と狂気の間をさまようものの、ついに完全な狂気に陥り「道化」という「理性」すらも失う。
グロスター伯が自らの愚かさによって、息子エドガー=狂人トムを失い、「視力」を失う物語であるなら、リア王はコーディリア=道化を失い、「理性」を失う物語と読めそうだ。
すこし穿った見方かもしれないが、そんな妄想を楽しみながら本を閉じた。
名言
気に入ったセリフを3つだけ紹介する。全て福田恆存の訳による。
誰でもよい、俺を知ってるものはいないのか?この身はリアではない。リアがこんな風に歩くか、こんな風に語るか?目はどこにある?智力が衰えたのか、分別が鈍ってしまったのか はっ!これでも目覚めていると?本当か?誰か教えてくれぬか、この俺が誰かを?
ゴネリルに冷たくあしらわれたリア王のセリフ。引退後、周りの目は変っているにもかかわらず、自分は未だ王のつもりでいる。会社のおえらいさんの中にも、こんな人がたくさんいそうだ。
ちなみに王の問に対し、道化は「リアの影法師さ!」と答えている。
人間、どん底まで落ちてしまえば、詰り、運の女神に見放され、この世の最後の境涯に身を置けば、常に、在るのは希望だけ、不安の種は何も無い。人生の悲哀は天辺からの転落にある、どん底を極めれば笑いに還るほかは無い。
(その後、失明した父親グロスター伯と再会した時の言葉)
誰が言えよう、「俺も今がどん底だ」などと?確かに今の俺は前に比べてずっと惨めだ。
だが、あすからは、もっと惨めになるかもしれぬ、どん底などであるものか、自分から「これがどん底だ」と言っていられる間は。
エドガーのセリフ。「俺は不幸だ!」と言っている人ほど、端から見ると大したことがなかったりする。本当の不幸はその不幸に慣れてしまい、もう何も感じないことかもしれない。
忍耐が肝腎だぞ。人は皆、泣きながらこの世にやって来たのだ、そうであろうか、人が始めてこの世の大気に触れる時、皆、必ず泣き喚く。
(省略)
生れ落ちるや、誰もが大声挙げて泣叫ぶ、阿呆ばかりの大きな舞台に突き出されたのが悲しゅうてな。
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リア王のセリフだが、全シェイクスピア作品で一番気に入っている言葉。まさにその通りと思った。この世はアホばかりの劇場だ。そして自分もアホを演じている一人にすぎない。
リア王をテーマにした映画
2018年の映画。主演はアンソニー・ホプキンス。
舞台は現代のロンドン。しかし登場人物は皆軍服を着ており、独裁者が支配する軍事国家という設定のようだ。
一方、ストーリーはほぼ忠実に原作を踏襲している。
興味深かった点は、道化を老俳優が演じていることだ。
リアと同年代の人物を対峙させたことで、あたかもリアの片割れの様でもあり、リアが自問自答し内面が浮き彫りにされるような効果があったと思う。
原作では途中からなんの説明もなく道化が消えしまうが、映画では心臓発作か何かで死ぬ描写があり、道化の登場シーンがなくなる理由がわかるように工夫されている。
また、ゴネリルがリアを屋敷から追い出した理由も、映像化されることによって納得できた。確かに屋敷で100人の兵隊が騒ぎを起こしたら、誰でもブチ切れる。それにリア王は終始怒鳴り散らすうるさい老人だ。こんなのが家族にいたらゴネリルやリーガンでなくても、耐えられないだろう。
一方、時代の設定をわざわざ現代に変えた理由は、よくわからなかった。
現代の軍服姿の人物がシェイクスピアの厳かなセリフを話すと、大げさで滑稽に感じてしまう。
また現実的な空間の中では、あわただしく次から次に出来事が起こる不自然な展開や、眼をえぐられるといった残酷なモチーフ、あるいは王のコーディリアに対する理解不可能な怒りが、悪目立ちするような気がした。
シェイクスピアは現実より架空の空間で見るほうがよい。
例えばジョエル・コーエン監督の「マクベス」は現実離れした幾何学的な空間を舞台にしたことで、物語の抽象性を高め、滑稽になりがちな魔女やバーナムの森といったモチーフを映像化することに成功した。
「リア王」も、このような抽象的な表現の方が、映像化には適していたのではないかと思った。
ちなみにケント伯を演じた役者はジム・カーターで、ダウントン・アビーでは執事のカーソンを演じている。どちらも忠実な家臣といった役なので、イメージが重なる。
小説に忠実な家臣が登場したら、自動的にジム・カーターの顔に変換されそうだ。