目次
はじめに
シェイクスピアの「マクベス」を読んで、こんなジョークを思い出した。
ビル・クリントンが大統領時代、妻のヒラリーとドライブに出かけた。途中ガソリンスタンドに立ち寄ったが、そこで働いていた男が何とヒラリーの元ボーイフレンドだったのだ。
ビルが言った。「彼と結婚していたなら、君はガソリンスタンド店長の奥さんになっていたね 」
ヒラリーが言った。「彼と結婚していたら、彼が大統領になっていたわ」
よくできたジョークだと思う。(本当の話かな?)
ただ、奥さんのおかげで権力を手にした男は何もビル・クリントンだけではない。
11世紀のスコットランドを舞台にした「マクベス」は悪妻にそそのかされて王になった男の物語だ。
しかし、アメリカ大統領とは違い、マクベスには悲劇的な最後が待っていた。
シェイクスピアの四大悲劇(ハムレット、マクベス、オセロー、リア王)の中で、もっとも短い物語だが、そのシンプルさゆえ、一気に引き付けられる作品だ。
「マクベス」の相関図を見たうえで、 あらすじを見てみよう。
あらすじ
物語は不気味な三人の魔女の会話で始まる。
「きれいは穢い(きたない)。穢いはきれい」
主人公マクベスの栄光と転落を暗示するかのような魔女のセリフで、この物語は幕を開ける。
マクベスはスコットランドの将軍だ。対ノルウェー戦で武勲を挙げ、ダンカン国王からの覚えもめでたい。
王が待つ陣地へ引き上げる道中、マクベスと友人のバンクォーは3人の魔女に遭遇する。
「グラミスの領主様!」「コーダの領主様!」「いずれは王になられる方!」魔女達はマクベスに、こう呼びかけた。
確かにマクベスはグラミスの領主ではある。しかしコーダの領主でもなければ、まして王でもない。これは予言なのだ。
それを聞いていたバンクォーは魔女達に「さあ、俺にも何か予言してくれ!」と挑発する。
「子孫が王になる。お前がならんでもな!」
魔女達はそう答えると、霧の中に消えてしまった。
マクベスとバンクォーはあっけにとられ幻でも見たかと訝るが、ちょうどそこに王の臣下達が現れる。彼らは、王が褒章として、マクベスにコーダの領地を与えたことを伝えに来たのだ。
魔女たちの一つ目の予言があたった。
そうとなるともう一つの予言が気になる。「自分は王になれるのではないか・・?」こんな期待がマクベスの心に沸きあがる。
マクベスとバンクォーが陣地に戻ると、王は最大限の賛辞を贈るが、同時に、長男のマルコムを世継ぎにすると臣下の前で宣言した。
次期王の座を狙うマクベスにとって大きな障害が立ちはだかった。
しかしマクベスは自分の心の奥底に、黒い感情が芽生え始めるのを感じていた。
一方、マクベスの城では夫人がマクベスからの手紙を読み、浮足立つ。無上の権力を手に入れるチャンスが訪れたのだ。
ただ情に流されやすい夫の性格が心配ではある。
「はたして夫はやってのけることができるだろうか・・・・」
そこにマクベスが現れる。
今夜、城にダンカン王が滞在することになり、その準備のため一足先に戻ったのだ。
マクベスが王位を簒奪するには絶好の好機である。夫婦は密かに画策する。
やがて王を囲んでの宴会が始まるが、マクベスの心は不安でかき乱されていた。
彼は自分の卑劣な企てに怯み、計画を取りやめようとする。しかし、夫人から「勇気をふりしぼりだすのです!」と鼓舞され、ようやく腹を決める。
頼もしい、いや、恐ろしい奥さんを持ったものだ・・。
夜が訪れた。
王を守るはずの二人の護衛は、マクベス夫人の差し入れた薬のせいで、高いびきをかいている。
やがてマクベスが王の寝室から出てきたが、その手には血だらけの短刀があった。ついに王を殺害したのだ。
しかしマクベスの気は動転していた。「もう眠りはないぞ!」という幻聴を聞く。その言葉はマクベスの心が休まる日はもう訪れないと暗示しているかのようだ。
夫人はマクベスに、手にしていた短剣を部屋に戻し、眠る二人の護衛に血を塗るよう促した。罪を護衛に擦り付けようとしたのだ。しかし気弱になったマクベスには、それができない。
見かねた夫人は、自ら短剣を部屋に戻し、血を護衛に塗り付けた。
ふがいのない夫だと、さぞ失望したことだろう。
おかげで夫人の手も血で真っ赤に染まってしまった。(この場面は、第五幕の夢遊病となった夫人の描写につながる)
夜明けとなり家臣のマクダフとレノクスが、王を迎えにやってきた。
マクダフは王の寝室に入るが、変わり果てた王の姿を見つけ、血相を変えて部屋から飛び出てくる。
マクベスとレノクスが入れ替わり部屋に入るが、怒りで逆上した(フリをした)マクベスは二人の護衛を切り殺してしまう。
死人に口なし。これで証拠隠滅はできた。
騒ぎを聞きつけ、二人の王子マルコムとドヌルベインも現れるが、身の危険を感じ、マルコムはイングランドに、ドヌルベインはアイルランドに逃げることにした。
しかし、密かに姿をくらましたことで、王殺しの嫌疑は二人の王子にかかってしまう。
その結果、王位は自然マクベスの手に帰したのだ。
万事はマクベスとその夫人の思惑通りとなった。
魔女の予言通りマクベスは王となったが、その心は休まることがない。
「バンクォーの子孫が代々王になる」という、もう一つの予言が彼の心を曇らせるのだ。
これでは苦労して手に入れた王座を、みすみすバンクォーの子孫たちに譲ることになるではないか?
思案した挙句、マクベスは刺客を差し向け、バンクォーとその息子フリーアンスを暗殺しようと企てる。
ところが、刺客はバンクォーの殺害には成功したものの、フリーアンスを取り逃がしてしまう。
その夜、マクベスは晩餐会を催す。
家臣たちが居並ぶなか、マクベスは自分の席を探すが、空いた席が見つからない。
そこには死んだはずのバンクォーの亡霊が座していたのだ。
マクベスはおののき、家臣達の前で取り乱してしまう。
不安に駆られたマクベスは魔女達を訪れ、新たな予言を請う。
魔女達の窯の上に幻影が現れこう告げた。
第一の幻影:「マクダフに気をつけろ!」(マクダフはマクベスの家臣)
第二の幻影:「女が生み出した者では、マクベスは倒せぬ」
第三の幻影:「マクベスは滅びない。バーナムの森が攻め上ってこぬ限りは」
女から生まれない者はいない。森が攻めてくることもない。ならばマクダフに打ち取られることなどあるものかと、マクベスは安堵する。
ただ、もう一つ気になることがあった。
「バンクォーの子孫が国を統べる日が来るのだろうか?」マクベスは問いかける。
すると8人の王の幻影が現れ、その最後尾でバンクォーの亡霊が王達を指さしたのだ。
これはバンクォーの子孫が代々王になるということか?
マクベスの不安をよそに、魔女たちは嘲笑するかのように踊り、やがて消えてしまった。
そこに家臣が現れて、マクダフが裏切り、イングランドに逃亡したと告げる。
さっそく一番目の予言が的中した。
逆上したマクベスは、マクダフの城を襲い、妻と幼い子供をはじめ、一族を皆殺しにしてしまう。
マクベスは恐ろしい暴君と化したのだ。
一方、マクダフはイングランドに逃げ、先に逃亡していたマルコムと合流する。
マクダフはマクベスを倒すよう進言するが、言われるまでもなくマルコムはすでにスコットランドへ出兵していた。。
その時、マクダフのもとに連絡が入り、妻や子をはじめ、一族が皆殺しにされたことを知る。
マクダフは怒りに震え、マクベスへの復讐を誓うのであった。
マクベス夫人は精神に異常をきたし、夢遊病を患う。
夜ごと、眠りについたまま、手をこすり合わせて血を洗い流そうとする。
それはダンカン王、バンクォー、そしてマクダフ一族の血だ。
「アラビアの香料をみんな振りかけても、この小さな手に甘い香りを添えることは出来はしない。」
それを隠れて見ていた侍医は、妃には医者より僧侶が必要だとし、匙を投げる。
そのころマクベスの城には、マルコム達が率いるイングランド軍が迫っていた。
マクベスは応戦を試みるも、その暴君ぶりは目に余るものがあり、多くの臣下が城から逃げ出していた。
形勢は不利であったが、マクベスは魔女の予言を信じ、城に立てこもる。
「女が生み出した者では、マクベスは倒せぬ」
「マクベスは滅びない。バーナムの森が攻め上ってこぬ限りは」
この予言が正しい限り、マクベスが倒れるはずがない。
そんな中、夫人が自ら命を絶ったとの悲報が入る。
更に驚くような知らせが届く。バーナムの森が動き出だしたというのだ。
実はマルコムの軍が頭上に木の枝をかざして進軍していたのだが、それを知る由もないマクベスは魔女の予言に裏切られたと思い、自暴自棄となる。
マクベスは最後の決戦を覚悟し城外へ出る。次々と敵を倒し奮闘するが、とうとう復讐心に舞えるマクダフと対峙する。
「女から生まれたものに、俺を倒すことなどできないぞ!」と意気込むマクベスに、マクダフは「俺は生まれるときに、月足らずで母の胎内から引きずりだされた男だ!」と答える。
(帝王切開で生まれたので、女の股から生まれたのではないということ)
最後の予言からも見放されたマクベスは、ついにマクダフの剣の前に倒れる。
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なぜ魔女がマクベスの前に姿を現したのか、その理由は描かれていない。
マクベスにとって魔女との出会いは事故のようなものだ。魔女に出会わなければ、悲劇的な最後を迎えることはなかったかもしれない。
しかし本当にそう言えるだろうか?
話が脱線するが、「少しだけ、無理をして生きる」という城山三郎のエッセイ集がある。
この中で、渋沢栄一と、いとこの喜作の話がでてくるのだが、二人のいとこは若いころは同じような生活をおくり、同じような考え(尊王攘夷)を持っていた。しかし性格の違いによって、その後は異なった人生を歩むことになる。一人は経済で新しい時代を切り開き、一人は幕府を守るため、若くして命を落とす。
そこで城山は「人は、その性格に合った事件にしか出会わない」と言う。(これは小林秀雄の言葉の引用だそうだ)
つまり、「事件に遭遇して、こんな自分になった」のではなく「こんな自分だから、こんな事件に遭遇した」というのだ。
マクベスは魔女との出会いによって、王位簒奪を思い立ったわけではない。
その暗い欲望はすでにマクベスの中にあり、それが魔女との出会いを招いたのだ。
そして魔女は3人いる。
3次元や三脚という言葉のように、「3」には現実の世界に形を生り立たせるイメージがある。3人の魔女との出会いとは、今まで意識の背後に隠れ、無定形だった欲望に、しっかりとした形を与えるという比喩に思える。
では、この欲望はどこから湧いて生まれたのか?
マクベスは予言を知るや、その内容をいち早く夫人に伝えている。マクベスは自分一人では決意できず、夫人の助けが必要なのだ。
その後も、幾度となくマクベスは弱気になるが、夫人に促され、ようやく行動を起こすことができる。
マクベスの欲望の原型は夫人の存在にあると言えそうだ。
夫人からの承認欲求、夫人からの称賛、あるいは夫人へのコンプレックス。こうした感情がマクベスの黒い欲望を形成していったのではないか?
そういえばこの女には名前がない。終始「マクベス夫人」と呼ばれ、一人の人格というより、マクベスの負の一面を担っているようだ。
そう考えると、「マクベス夫人」とは、マクベスの中にある葛藤であり、一人芝居の擬人化とも読み取れる。
こうした葛藤の中から生まれた欲望が、3人の魔女との出会いにより意識の表面に現れ、マクベスの行動を支配していったのではないだろうか。
「バーナムの森が動くはずはない。だから自分が負けることなどありえない!」そう信じたマクベスだったが、その希望は裏切られることになる。
一見荒唐無稽な話のようだが、「ありえないことが起こる」という話しは、身の回りにもたくさんあるような気がする。
例えば東日本大震災の津波はどうだろう。
多くの人が、海と陸の境界線は決まっていると思い込んでいなかっただろうか?
しかし、テレビが映したのは、地表を侵食しながら進んでいく真っ黒な海の姿だった。さながら「バーナムの森」ではないか。
この光景は、頭の中にある津波のイメージをはるかに凌駕していた。自分の想像力の乏しさを見せつけられたような思いがした。
ではもう一つ、経済について思い出そう。
かつてロングターム・キャピタル・マネージメント(LTCM)というヘッジファンドがあった。
LTCMはマイロン・ショールズやロバート・マートンといったノーベル経済学者をメンバーに加えた、いわばドリームチームだった。
ところが1998年に起こったロシアの経済危機がきかっけとなりLTCMは破綻してしまう。彼らはロシア国債が債務不履行になる確率を100万年に3回と計算していた。つまり絶対にありえないことだったのだ。
しかし、ロシアの経済は簡単に破綻してしまう。取り付け騒ぎが起こり、銀行に行列を作るロシア人達をテレビは映し出していた。
ノーベル経済学賞級の最高の頭脳をもってすれば、リスクをコントロールできるという驕りがあったのではないだろうか?彼らは暴落する市場を見ながら、強欲資本主義に神の怒りが下ったように感じたことだろう。
(ところで人間が国家を作って数千年しか経ていないのに、どうやって100万年という数字を出したのだろう?)
他にも、リーマンショック、コロナウイルス、ロシアのウクライナ進行など、「こんなことは起こらない」と思いこんでいたことが、実際には起きた。
「バーナムの森は動かない」こうした考えの根底には、人間の知性の傲慢さが隠れていないだろうか?
しかし世界は端倪すべからざる力で成り立っている。明日はなにが起こるかわからない。
北朝鮮からミサイルが飛んでくるかもしれないし、隕石が落ちるかもしれないし、ノアの箱舟のような大洪水がおこり人類が滅亡するかもしれない。
しかし、そんなことを心配したところで仕方がないのも事実だ。その日が来るまでは、せいぜい人生を楽しむことにしようと思う。
「マクベス」の中の名言
シェイクスピアの戯曲は名言の宝庫だが、「マクベス」も例外ではない。
以下、気にいったセリフだけを記す。
なお、訳は全て新潮文庫の福田恒存訳による。
きれいは穢い、穢いはきれい
冒頭の魔女の言葉であるが、文脈上はたいした意味はない。
しかし、王冠を手中に収めながらも破滅への道へと向かう「マクベス」の主題そのものを暗示しているかのようだ。
それどころか、この短いフレーズが、矛盾だらけの世界全体を含意しているようにも感じる。
星も光を消せ!この胸底の黒ずんだ野望を照らしてくれるな、眼は、手のなすところを見て見ぬふりをするのだ、どっちにしろ、やってしまえば、眼は恐れて、ろくに見ることも出来はしまい。
マクベスが王の殺害を自覚したときの独白だ。しかし未だ迷いがあり、その暗い欲望を直視できないでいる。
所詮人は自分が見たいと欲するものにしか光を当てようとしないのだ。
あすが来、あすが去り、そしてまたあすが、こうして一日一日と小きざみに、時の階(きざはし)を滑り落ちていく、この世の終わりに辿り着くまで。いつも、きのうという日が、愚か者の塵にまみれて死ぬ道筋を照らしてきたのだ。消えろ、消えろ、つかの間の燈し火(ともしび)!人の生涯は動き回る陰にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。
夫人の死を知ったマクベスのセリフ。
恐ろしい言葉だと思う。無為に過ごす一日一日は、確実に死に向かう道筋でもある。所詮人間はそこで道化を演じる役者にすぎない。
「マクベス」を主題にした映画
マクベスを主題にした映画はいくつかあるが、私が見たのは以下の2つ。
主に原作とのちがいについて考えてみたい。
黒澤明監督、三船敏郎主演の名作。能の舞台を見ているような美しい映画。
日本の戦国時代を舞台をとし、主人公の名前をマクベスから鷲津武時に替えている。
大きなストーリーは本家「マクベス」と同様だが、いくつかの変更を加えたことにより、マクベスが犯した二つの罪について、動機がより明確になっている。
一つはダンカン王殺しだが、「マクベス」では夫人にそそのかされたとは言え、なぜマクベスが王位を簒奪しなければならなかったのか、その動機が不十分だ。
一方「蜘蛛巣城」では山田五十鈴が演じる妻の浅野(マクベス夫人)が「もし三木義明(バンクォー)が大殿(ダンカン王)に予言の内容をもらしたら、大殿は自分の地位を脅かすものとして、この城を襲うだろう」と鷲津を揺さぶる。
「大殿を殺さなければ、自分が殺される」という切羽詰まった状況が、殺害の動機を正当化する。
もう一つの罪はバンクォー殺しだが、マクベスには子供がいない。世継ぎがいないのだから、慌ててバンクォー達を殺す必要はなかったはずだ。
一方「蜘蛛巣城」では、当初鷲頭は予言通り三木の息子を世継ぎにしようと考える。ところが妻の浅芽が妊娠したことにより、三木を殺す動機が生まれる。
このように本家「マクベス」ではわかりにくかった動機が、映画では明確になりストーリーがよりスムーズに展開する。
また、マクベスはマクダフに殺されるが、「蜘蛛巣城」ではマクダフに相当する人物は登場しない。
そのため「鷲津は、森が動いたことに動揺した兵士たちに裏切られ、殺される」というストーリーに変更されている。
この変更によって、映画史上に残る奇跡的なラストシーンが誕生した。
鷲津が無数の矢に射抜かれるシーンは、今まで能のような「静」を基調にしていた画面に「動」をもたらし、見る者を圧倒する。
実はこの場面は、弓道部員の学生たちが本当に矢を打ち込んでいるそうだ。危険すぎだろう!今ならコンプラ違反だ。
なぜ三船はこんな無謀な撮影を許したのだろうか?
黒澤映画のスクリプター(記録係)である野上照代氏によると三船には「戦争中の忠義心」があったという。黒澤が三船を取り上げてくれたという恩義に報いるという気持ちがあったというのだ。(映画「MIFUNE THE LAST SAMURAI」でのインタビュー)
死というものが戦争といまだ地続きであった時代の空気だろうか?
恐ろしいのは小説の中の人物や亡霊ではない。現実の人間の方が野蛮ではないかと感じた。
このラストシーンはぜひ映像で見ていただきたい。いくつかの動画配信サービスで見つけることができるだろう。
ジョエル・コーエン監督、デンゼル・ワシントン主演の映画。AppleTV+で配信。
マクベスやマクダフに黒人俳優を起用している。ポリティカルコレクトというやつだろうか?
この調子だとオセローのイアーゴーも白人俳優が演じることになるだろう。
映像はモノクロームで、無駄な装飾は極力省かれている。そのため映画でありながら、舞台を見ているような緊張感がある。観客の焦点は自然と役者に集中し、一言一言はっきりと発音されるセリフに耳を研ぎ澄ますことになるのだ。
ストーリーは本家「マクベス」とほぼ同様。ただしいくつかの点で異なってる。
例えばロスという登場人物がいる。当ブログの「あらすじ」では、ストーリーの展開にはそれほど影響がないと考え、思い切ってカットしてしまった。
ただ映画では、ロスが重要な役割を果たす。
原作では、王の殺害の場面に続いて、ロスと老人の会話があり、その後ロスとマクダフの会話が始まる。
映画では順番が逆で、ロスとマクダフの会話があり、その後ロスと老人との会話が続く。
あえて順番を変えたのは、老人との会話を重視し、含みを持たせ、その後の展開に続けるためだろう。原作ではさらりと読み流してしまいそうだが、老人の言葉はマクベスが王を殺したこを暗示している。
一羽の鷹が、空から高く舞いあがり、誇らかにその高みを極めたかとおもうと、いきなり横から飛び出した鼠とりの梟めにあえなく殺されてしまいましたっけが。
原作との大きな違いは、マクベスによるバンクォー親子暗殺計画を、このロスが知っていたことだ。
ロスは身を隠し殺害の現場を見ている。刺客が去った後、逃げた息子のフリーアンスを保護し、前出の老人に預けている。(この場面はラストシーンでわかる)
なぜ映画では原作にはない、このようなシーンが追加されたのだろうか?
原作ではフリーアンスが逃げた後の展開が示されていない。「バンクォーの子孫が王になるという予言はどうなったのだろう?」と、読者は気になるだろう。
しかし、当時の人にとっては説明の必要すらなかったのかもしれない。
というのはスコットランド王かつイングランド王であるジェームス1世こそが、このフリーアンスの子孫であり、「バンクォーの子孫が王になる」という予言の正当性は、ジェームズ1世の存在をもって明らかだったからだ。
シェイクスピアが「マクベス」を書いたのは、その血筋がバンクォー、フリーアンスに遡るジェイムズ1世への賛辞という意味もあったのだ。
映画では逃亡したフリーアンスの物語を回収し、魔女の予言が実現したことを暗示するため、ロスに助けられるというストーリーを追加したのだと思う。
ちなみにこの血筋は現代のイギリス王室に引き継がれている。「マクベス」は短い戯曲ながらも、現代にもつながる壮大な物語なのだ。