ソポクレス「オイディプス王」のあらすじと感想

はじめに

面白くて、読みやすくて、短い!ソポクレスの「オイディプス王」は三拍子揃った戯曲だ。岩波文庫だと税抜きで520円。安くて助かる!

大昔に書かれた書物は概ね読みにくい。「旧約聖書」のヤハウェは日本人にとっては共感しにくい神様だし、ホメロスの「イリアス」は描写が微細にわたりすぎて読むのが嫌になる。

その点「オイディプス王」は紀元前472年ごろの作品であるにもかかわらず、現代の私たちが読んでも違和感無く楽しめる。

さて、「オイディプス王」と言えば、スフィンクスの「なぞなぞ」を思い浮かべる人が多いだろう。

「朝には四つ足、昼には二本足、夜には三つ足で歩くものはなーんだ?」。もちろん答えは「人間」である。

ところがソポクレスの「オイディプス王」には、この有名なエピソードは出てこない。スフィンクス事件の十数年後の出来事から話が始まるからだ。

「皆さん、当然オイディプスの物語は知っていますよね?これから始まるお話は、その後の物語ですよ。」ということなので、我々も「あらすじ」に入る前に、前提となるストーリーを確認しておこう。

あらすじ

「オイディプス王」を読む前の基礎知識

古代ギリシャのテバイにライオスという王がいた。王はアポロンの神託で「やがて生まれてくる子供に命を奪われる」ことを知る。王は妃のイオカステと図り、生まれた赤ん坊を家臣の羊飼いに託しキタイロンの山で殺そうとする。ところが羊飼いは子供を哀れに思い殺すことができなかった。結局赤ん坊は隣国のコリントス王夫妻に拾われ、彼らの子供として育てられる

十数年後、テバイの王ライオスは再びアポロンの神託を受けるため、四人の家臣と共に旅に出かけた。ところがその途上で王と家臣は盗賊に殺害されてしまう。結局一人の家臣だけが生きて逃げ帰る。

しかし当時のテバイは犯人を詮索するどころの話しではなかった。スフィンクスが出没し、なぞなぞに答えられない人々の命を奪っていたのだ。

そこに旅をしていたオイディプスが現れる。彼は謎を解き明かしスフィンクスを退治する。町を救ったオイディプスは殺害されたライオス王の跡を継ぎ、妃イオカステを妻に娶る。二人は四人の子供を設け、しばらくは平和な時代が続いたのだが・・・。

ここまで理解した上で、ようやくソポクレス作「オイディプス王」の物語が始まる。

誰が王を殺害したのか?

当時テバイの都は不作や疫病が蔓延し民は苦しんでいた。そこで都の人々はオイディプス王の宮殿に押しかけ、王に助けを求めた。「かつて王様はスフィンクスを退治してくださった。今回も民をお助けくださいませ!」

オイディプス王は民に言われるまでもなく、すでに手を打っていた。家臣のクレオンをアポロンの神殿に遣わし、国を救うために何をするべきか、神託の伺いをたてるように命じていたのだ。

クレオンはオイディプス王の妻の弟、つまり王の義理の弟だ。クレオンは王の期待に応え神託を持ち帰る。

「王よ!良い知らせですぞ。アポロンのお告げは、”この国には汚れが巣くっている。これを国土から追い払え!”とのことです」

オイディプスが王となる前、この国はライオス王によって治められていた。しかし何者かによって殺害されてしまう。当時はスフィンクス事件で犯人捜しどころではなく、事件はうやむやになっていたのだ。アポロンの神託によると、王を殺した犯人を見つけて国外に追放すれば国が救われるという。

オイディプス王は「よしわたしが真犯人をみつけて、事件を解決してみせよう。」と群衆の前で誓う。さすがスフィンクスの謎を解いただけのことはある。頼りがいのある王様だ。

オイディプスとスフィンクスより ギュスターヴ・モロー

オイディプス王、予言者テイレシアスの発言にブチ切れる

オイディプス王は家臣クレオンの勧めにより、盲目の予言者テレイシアスの力を借り、殺害者を探そうとする。

やがて王の前にテレイシアスが現れるが、彼はどうしても予言の内容を話そうとしない。

しびれを切らして王はブチ切れる。「おのれ、知っていながら言わぬ気か!この人でなし!」

更にこう続ける始末。「わかったぞ!この目に狂いがなければ、お前こそが犯人の一味だな!」

こうまで言われてテイレシアスも逆切れだ。

「よくもそんなことが言えますな!では真実をお話ししましょう!あなたが求める殺害者は、あなた自身です!

身に覚えのない罪を着せられオイディプスの怒りは頂点に達するが、テレイシアスがこんな偽りの予言をしたのはクレオンのせいだと考える。

クレオンがテレイシアスに「王が犯人」だと言わせ、自分を追放し王位を奪おうとしていると考えたのだ。

イオカステの慰めが、オイディプス王を更に不安にする

クレオンは疑いを晴らそうと王のもとに駆け付ける。そして「なぜすでに権力の座にいる自分が、あえて危険を冒してまで王を追い払おうとしましょうか?」と抗議をする。しかしオイディプスは聞く耳をもたない。

そこに妃のイオカステが現れる。イオカステはオイディプスを安心させようと、いかに予言が当てにならないものか、昔の出来事を話す。

「かつてライオス王に”いずれお前は自分の子供によって殺されるであろう”という神託が下されました。しかしその後王は盗賊によって三叉路で殺されてしまったのです。一方、生まれた子供はライオスがくるぶしを留め金で突き刺し(オイディプスとは「腫れ足」の意味)、山に捨てました。結局予言が当たることはなかったのです。」

オイディプスはその話を聞き、かえって不安になる。

実はオイディプスにはかつて三叉路で人を殺めた過去があったのだ。

彼はイオカステにライオスの容貌、殺害された場所、お供の数を聞き出し、自分こそがライオス王を殺した犯人ではないかと疑念を抱くようになる。

オイディプスはイオカステに自分の過去について語る。

「私はコリントスの王ポリュボスの子として生まれた。ところがある酒宴の席で私は王の本当の子ではないとの噂を聞いた。私は事の真偽を確かめるため神託を伺おうとデルポイに赴いた。しかし神は私が知りたいことに答える代わりに”いずれお前は実の母親と交わり、実の父親を殺すであろう”という、恐ろしいお告げを下したのだ!」

オイディプスはお告げが現実になることを恐れ、自らコリントスを去り旅に出る。その途上で、自分に無礼を働いた旅の一行を殺してしまったのだ。しかしこの相手がライオス王であったかどうかは、まだ確証が持てない。

それに仮にオイディプスがライオスを殺したからと言って、「王が実の子供に殺される」「その子供は母と交わる」というお告げとは相いれないではないか?すでにライオスとイオカステの子供は山に捨てられ殺されているのだ。

ライオス殺害事件の時四人のお供がいたが、そのうち一人が生き延び、今は人里離れて羊飼いをしてるという。オイディプスは事の真相を知るため、この羊飼いを宮殿に呼びだし、問いただすことにする。

ライオス王の死 ジョゼフ・ブランク

オイディプス王はコリントス王の子ではなかった

羊飼いを待つ間、コリントスから使者が訪れる。彼はコリントスのポリュボス王が死んだため、オイディプスに王位を継いでもらおうとやってきたのだ。

オイディプスは父親が死んだことを知り、「もはや自分が父親を殺すことはない。神の神託は間違えていたのだ」と安堵する。しかしまだ「母親と交わる」という予言の可能性は残るため王位を断る。

ところがそれに対する使者の答えは驚くべきものだった。

「心配するには及びません。実はお父上もお母上もあなた様の本当の親ではございません。あなた様は私にキタイロンの山で拾われたのです。あなた様のくるぶしに刺さっていた留め金を抜いたのは、この私なのです。」

そしてこのコリントスの使者に子供を引き渡した人物が、今行方を捜しているライオス王殺害事件で生き残った羊飼いだということがわかる。

「かつて宮殿で何があったのか?」オイディプスはイオカステに詰問するが、彼女は答えようとせず部屋に引きこもってしまった。

過去を知る羊飼いが連れてこられ、真相が明らかに

やがて羊飼いが連れてこられる。ところがなかなか真実を話そうとしないため、オイディプスは彼を縛り上げ、厳しく尋問した。

羊飼いはいやいやながら、事の顛末を話し出す。

オイディプス「(コリントスの使者を指さし)この者に子供を渡したのははお前か?」

羊飼い「わたくしでございます・・・」

オイディプス「誰の子供だ?」

羊飼い「ライオス様のお子でいらっしゃいました。その事情は奥方がご存じのはず・・・」

オイディプス「なんのために?」

羊飼い「殺すようにとのお言いつけでした」

オイディプス「みずからの子を?」

羊飼い「不吉なご神託のためでございます」

オイディプス「どのような神託だ?」

羊飼い「その子供がいずれ父親を殺すというご神託でした」

オイディプス「なぜ、コリントスの羊飼いに子供を渡した?」

羊飼い「子供を不憫に思ったからでございます」

これで事実が明らかになった。ライオス王はオイディプスの父親だったのだ。

神託を知ったライオスとイオカステは生まれたばかりのオイディプスを殺そうと、くるぶしを留め金で突き刺し、羊飼いに命じてキタイロン山に捨てようとした。

ところが羊飼いは子供を殺すことができず、コリントスの使者に渡してしまった。そして子供のいなかったコリントス王夫妻に育てられた。

成人したオイディプスは三叉路でたまたま出会った実の父親を殺し、王となり、その妻つまり自分の母親を妻として娶り、子を産ませたのだ。

テバイ(テーベ)、タイロン山、コリントスの位置関係

神託はすべて現実となり、オイディプス王はテーバイの都を去る

オイディプスは気も狂わんばかりとなって部屋に戻るが、そこで見たのはイオカステが首をつって死んいる姿だった。

彼女は自分の子供を夫としてしまった事実を知り、自ら命を絶ったのだ。

オイディプスはイオカステの死体を縄からおろし、彼女が身に着けていた留め金を取り上げた。そしてその針で何度も自分の目を突き刺した。このおぞましい悲劇を見ることを、自らの目に対し禁じたのだ。

そこにクレオンが駆け付ける。

オイディプスはクレオンに残された二人の娘(アンティゴネとイスメネ)の庇護を頼み、自分はこの国から去ろうと決意する。

「オイディプス」には後日談もある

悲劇「オイディプス」の物語はここで終わるが、ソポクレスはそれに続く作品も制作している。

流浪の旅に出たオイディプスの最後を描いた「コロノスのオイディプス」と、その娘の悲劇を描いた「アンティゴネ」だ。

これら三部作は連続して作られたわけではないので、物語間に若干の矛盾があるのだが、ソポクレスの優れた描写でオイディプスの一族が滅亡へと進む一連の道筋を知ることができる。

感想

「意思を持って生きている」と自信をもって言えるか?

個人的な体験談で恐縮だが、先日友人(女性)と喧嘩をしてしまった。

酒が入り終電間際だったこともあり、後から考えて何故こんな言い争いになったのか、今一つ判然としない。

確か「最近格差社会と言われるけど、時間をどう使うかで人生に差がつくと思う・・」云々と言った気がする。こんな話をしたのは、最近自分自身が会社を辞め時間に余裕ができ、時間の使い方で残りの人生は随分と異なるものになるだろうという実感から出た言葉だ。大して深い意味はない。

ところが、彼女は「格差がつくのはしょうがないですよね。だってそれは自分で選んだのですから。」とつっかかってきた。口調はかなりトゲトゲしい・・。

一体私の言葉をどう解釈したら、この発言にたどり着くのか、彼女の思考の回路がさっぱりわからなかったのだが、こちらも多少むきになり言い返した。

「自分で選んだといっても、人の人生は自分の意思だけで決まるわけではないでしょう。教育だとか生まれ育った環境とか、意思以外で決まる面が大きい。自分の意思で人生を決めていると考えるのは、たまたま恵まれた環境で育った人の考えでは?・・・」こちらも負けず劣らずピントがズレまくっているが、更に火に油を注いでしまったようだ。

「私は自分の意思で人生を決めています!こちょうさん(私のこと)は、人の言うままにに生きたらいいんじゃないですか?」

お互い酔っぱらっているせいか、会話がかみ合っていない。いつの間にやら私は他人に人生をコントロールされていることになってしまった。どう話題を変えようかと思い悩んでいたところ、最寄り駅についた。何とも後味の悪い酒になってしまったものだ。

彼女の言葉から判明したことは、どうやら「彼女は自分の意思で自分の人生を生きているらしい」ということと「私は他人の意見に流され、主体性のない生き方をしているらしい」ということだ。

まあ、そう言われれば、そうかもしれない。

彼女は若くして管理職に昇格したエリートキャリアウィーマン。おまけになかなかの美人ときている。

一方こちらは出世の見込みも無い、うだつの上がらないおっさんだ。もはや会社に自分の居場所はないと早期退職してしまった。

彼女と私では経験してきたことや見ている景色が違うのかもしれない。

きっと彼女は相応の努力をして、自分の意思で今の地位を勝ち取ったというプライドがあるのだろう。そしてこれからも自分の意思で成功をつかもうという自信に満ちている。こちらが「意思薄弱は私を理解してほしい・・」と懇願したところで軽蔑されるだけだ。

人はどこまで自らの意思で人生をコントロールしているのだろうか?

さて、前置きが長くなったが話を「オイディプス王」にもどそう。

オイディプスは自分の意思で生きた人間だ。彼は「いづれ父を殺し、母と交わる」という神託を聞くと、その悲劇を避けるため自ら旅に出た。

テバイではスフィンクスに苦しめられる人々を助けるため、知恵を働かせて怪物を倒す。

テバイの民が飢饉で苦しむと、神託を受け、ライオス王を殺した犯人を捜し追放しようとする。

オイディプス王は強い意志を持って行動し、その決定は何一つ間違えていない。しかしそれでも神が定めた運命から逃れることはできなかった。

はたして人はどこまで自分の人生を自分の意思で選択して、生きているのだろうか?

社会的、経済的に成功すると、その成功は自分の努力や才能に起因すると考えがちだ。成功者は自分の体験をもとに、こんな本を出版するかもしれない。「成功する人の〇〇の法則」「お金持ちは〇〇をやらない」等々。

しかし成功するためには、強い意志だけでは不十分かもしれない。更に「運」を味方につける必要がある。

良い学校に行くには、親の知能が遺伝するかもしれないし、家の経済的な事情も関係するだろう。

会社であれば、どの部署に配属され、どの上司についてキャリアを積んだかが影響する。

スポーツ選手であれば、持って生まれた天性の身体能力が必要だ。

政治家や芸能界にいたっては二世ばかりではないか。日本は身分制社会か?

そもそも”努力できる”こと自体が持って生まれた才能ではないのかと思う。私は受験時代、机に向かうと自動的に眠くなる体質の持ち主だった。頑張ろうにも眠くなるので頑張れない。もともと「頑張る能力」が欠けていたのだろう。成績が悪かったのは自分のせいではないと思っている。

残念ながらゲームに勝つには、運よく良いカードが手元に配られる必要があるのだ。

勝負に勝てた人は意思や努力だけではなく、「たまたま良いカードが配られただけなのかもしれない」という可能性を十分肝に銘じた方がよいだろう。

意思や努力を過信する社会の冷淡さ

自己責任論がかまびすしい昨今だが、これは人間の意思、努力を過分に評価しすぎる世相の表れだと思っている。

「自分が社会的に成功し、お金持ちになったのは自分の努力のおかげ。うまくいかなかった人は努力しなかったせい・・・」

こうした考えは、時に貧困や孤立感で苦しんでいる人への共感を麻痺させ、社会を殺伐としたものに変えてしまう。

(共感=sympathyはギリシャ語のsyn(一緒に)とpathos(苦痛 )が語源だ。「一緒に苦痛を分け合うこと」だと解釈できる)

「たまたま良いカードが配られなかった人」への蔑みは、いずれ自分自身にも降りかかってくるかもしれない。

世間を見渡せば、成功者が転落する例は枚挙にいとまがなではないか。「いずれ自分も運に見放され、転落するかもしれない」という程度の想像力は容易に働きそうなものだ。

自己責任論者は自分の足元の土台を、過去の行為で固めて作ったと思っているようだ。ところが、こんな土台は端倪(たんげい)すべからざる摂理の前では簡単に崩れ去ってしまうだろう。

ラッキーカードが永遠に配られる保証はどこにもない。「良いカードが配られなかった人」への共感があれば、あるいは「彼らの姿は明日の自分の姿かもしれない」との想像力や謙虚さがあれば、我々の社会は本来あるべきはずの「優しさ」を、少しばかりは取り戻すことができるはずだ。

思い上がった人間への戒めのように、ソポクレスは「オイディプス王」を次の斉唱で終えている。

おお、祖国テバイに住む人びとよ、心して見よ、これぞオイディプス、かつては名だかき謎の解き手、権勢ならぶ者もなく、町びとこぞりてその幸運を、羨み仰ぎて見しものを、ああ 何たる悲運の荒浪に 呑まれて滅びたまいしぞ。

されば死すべき人の身は、はるかにかの最後の日の見極めを待て。

何らの苦しみにもあわずして、この世のきわに至るまでは、何人をも幸福とは呼ぶなかれ。

岩波文庫 藤沢令夫訳による