カミュ「ペスト」のあらすじを解説

はじめに

人間は理由を求めてしまう生き物だ。

「肺がんになるのはタバコのせいだし、コロナになったのは飲み歩いたせい、貧乏なのは努力をしなかったせい、不幸なのは前世で悪事をはたらいたせい・・・・・。」

こう考えることによって自分を安心させる。「ひどい目にあうのは理由がある。だから自分は大丈夫だ」と。

しかし世界は因果の法則で成り立っている訳ではない。理不尽な目にあい「どうして自分はこんな目に会わなければならないのか?」と永遠に問い続けることが人間の性なのかもしれない。

カミュの小説「ペスト」は伝染病に襲われた町で、人々が戸惑いながらも、この不条理を乗り越えようとする様を描いた小説だ。主人公の医師リウーをはじめ、魅力ある登場人物達を中心に物語は展開する。

彼らの会話の中から、我々は不条理な世界に対峙するヒントを見つけることができるかもしれない。

あらすじ

それは一匹のネズミの死体から始まった

場所はアルジェリアの港町オラン。

4月16日の朝、主人公のリウーは、アパートの階段で一匹のネズミの死体を見つけた。

「こんなところにネズミがいるわけがないが・・・。」

アパートの門番は「誰かのいたずらだろう」と気にも留めない。ところが同じ日の夕方、リウーは別のネズミが廊下で血を吐いて死んでいくのを見つけた。

ただその時リウーの頭を占めていたのはネズミのことではなかった。彼の妻は病気を患っており、明日から遠くの療養所に旅立つことになっていたのだ。

ところが次第に町にネズミの死体があふれ出し市民の間には不安が広まっていく。4月28日には8000匹のネズミが収拾されるまでになり、不安は頂点に達する。しかしそれをピークにネズミの死体はぴたりと消える。市民は一時安堵するが、それは更なる困難の前触れに過ぎなかった。大勢の人間が謎の熱病で死に始めたのだ。

死者の症状からリウーと友人の老医師カステルはこの熱病がペストであると確信する。

責任ある人たちの無責任さ

リウーは県庁に保健委員会を招集してもらい、この事態に対処しようとする。ところがいざ会議が開かれると、医師会会長のリシャールは町が混乱することを恐れ熱病をペストと認めることに躊躇する。リシャールはこう述べる

「法律による予防措置が必要だが、そのためにはペストであることをはっきりさせる必要がある。しかしこの点はまだ明確になっていない。」

知事も「自分が行政上の措置をとるためには、ペストであることが明言化される必要がる」との考えだ。

彼らはペストかどうか明確にされなければ、予防措置が取れないと決断を先送りする。

一方、リウーはペストかどうかの問題ではなく、これ以上死者を増やさないための対策を講じるべきだと主張する。

医者たちの話し合いの結果、「この病があたかもペストであるかのごとくふるまう」という、玉虫色の言葉で落ちつくことになる。

ようやく県庁は対応を始めたが、やったことは目立たぬところにビラを貼りだすという控えめなものだった。世論を不安にさせたくないのだ。

一方死者の数は日に日に増加する。しびれを切らしたリウーは知事に今の措置では不十分だと訴える。知事が総督府に命令を仰いだ結果、ようやくペストの宣言がなされた。

その内容はオランの町を完全に封鎖するという厳しいものだった。

こうしてオラン市と周りの町との往来は一切は遮断され、オランにとり残された人々は家族、恋人といった親しい人々と離れ離れとなる。リウーも療養に向かった妻と再会することができなくなってしまった。

町に取り残された人々は、最初は映画やカフェに出かけ気を紛らわせるが、次第に死の恐怖と近しい人との分断により追い詰められていく。

以下、五人の登場人物ランベール、パヌルー神父、タルー、グラン、コタールがそれぞれ、どのようにペストと対峙したのか見てみよう。

 ランベール 恋人と再会するため、町から脱出を試みる

新聞記者のランベールは、取材のためオラン市に滞在していた。ところがペストで町が閉鎖されたため、家に戻ることができなくなる。

彼にはどうしても再会したい恋人がパリにいた。

彼は医師リウーを訪ね、ペストに罹患していないとの証明書を書いてもらうよう依頼する。この証明書があればオランから脱出できると考えたのだ。ところがリウーは職務上、特例を認めるわけにはいかないと依頼を断ってしまう。

ランベールは「あなたの言っているのは、理性の言葉だ。あなたは抽象の世界にいるんです」と言ってリウーを非難する。

その後ランベールは密輸業者のコタールの助けによって町からの脱出を試みるが、うまくいかず途方にくれる。

そんな中、ランベールはリウーと再会する。リウーは友人のタルーと保険隊を組織しペストで苦しむ人々を助けようと奔走していいた。そんな彼らに対しランベールは、こう言って非難する。

あなた方は一つの観念のためには死ねるんです。

僕はもう観念のために死ぬ連中にはうんざりしているんです。僕はヒロイズムというものを信用しません。

僕が心をひかれるのは、自分の愛するもののために生き、かつ死ぬということです。

実はランベールにはスペイン戦争に参加した経験があった。彼は観念、理性、抽象といったものが戦争を引き起こし、こうしたものに参加することはヒロイズムだと考えていたのだ。リウーやタルーのペストとの闘いも観念から生まれたヒロイズムであり、個人の幸福の追求を否定するものとして非難したのだ。

 リウーはランベールの考えに一定の理解を示しながらも、これはヒロイズムの問題ではなく、誠実さの問題だと説く。リウーにとっての誠実さとは何か?それは医師としての職務を全うするということだった。

リウーの言葉にランべールは一瞬躊躇するが、「あなた方二人は何も失うものがないから、そんなことができるのだ」とやり返す。

しかし「リウーも妻と離れ離れの暮らしを余儀なくされている」という事実を知らされると、ランベールもオランにいある間はリウー達と共に保険隊で働こうと決心する。

やがてランベールに町から脱出するチャンスが再度訪れるが、彼は思いとどまり、最後までリウーらと共にペストと戦い続けることになる。自分の幸福だけを追求することが恥ずかしいことのように思えたのだ。

2.パヌルー神父 人は神が与えた罰を愛せるか? 

 パヌルー神父は人々から尊敬を集めるイエズス会士だ。彼は教会で説教を行うが、ペストを神の懲罰とみなし、人々に懺悔することを説く

皆さん、あなたがたは禍のなかにいます。皆さん、それは当然の報いなのであります。

そういえば東日本大震災でもどこかの知事が「天罰」だと言って非難されたことがあったが、この手の人間は古今東西どこにでもいるようだ。

リウーもパヌルー神父の説教に対し疑問を抱く。医師として救済に当たっている身としては「あの人は現場のことを知らないから、あんなことを言うんですよ・・・」とぼやきたくもなるだろう。

しかしパヌルーが偉いところは、自ら保険隊に加わり献身的な活動をしたことだ。

そんな中、待たれていた血清が開発され、瀕死の子供に投与されることになる。ところが血清は効果がなく、子供の苦痛を長引かせるだけの結果となった。苦しみながら死んでいった子供を見て、いつもは冷静なリウーがパヌルー神父に突っかかる。

 まったく、あの子だけは、少なくとも罪のないものでした。あなたもそれはご存じのはずです!

憤るリウーに対しパヌルー答える。

まったく憤りたくなるようなことです。しかし、それはつまり、それがわれわれの尺度をこえたことだからです。しかし、おそらくわれわれは、自分たちに理解できないことを愛さねばならないのです。

  リウーはこう返す。

そんなことはありません。僕は愛というものをもっと違ったふうに考えています。そうして、子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯んじ(がえんじ)ません

パヌルー神父はペストに神の意思を見出そうとしたが、医師であるリウーにとって死はリアルな現実だ。

彼は医師として目の前で苦しんでいる人を助け、職務を全うしようする。そんなリウーにとって死を神の意思として解釈することは耐えられないことだったのだろう。

この少年の死という出来事はパヌルー神父にも影響を与えた。彼は教会で再び説教を行うが、その内容は1回目の説教とは大きく変わっていた。

 皆さん。その時は来ました。すべてを信じるか、さもなければすべてを否定するかであります。そして、私どものなかで、いったい誰が、すべてを否定することを、あえてなしうるでしょうか

神への愛は困難な愛であります。それは自我の全面的な放棄と、わが身の蔑視を前提としております。しかし、この愛のみが、子供の苦しみと死を消し去ることができるのであり、この愛のみがともかくそれを必要なもの   ー ー理解することが不可能なゆえに、そしてただそれを望む以外にはなしえないがゆえに必要なもの ーー となしうるのであります

一回目の説教ではペストとは天罰である。罰であるからには、そこには理由があり、悔い改めることもできよう。パヌルー神父はペストを人々が正しい道に悔い改めるための神の恩寵としてとらえたのだ。

一方二回目の説教ではペストは「人間には理解不可能」なものとして捉えられている。しかしキリスト教徒にとって神は絶対に正しい。それゆえ人間には到底理解できないような悲惨な体験であっても、全面的にそれを受け入れなければならない。人々はなぜ罰が与えられたのか理由もわからず、ただそれを神の意志として受け入れるしかないのだ。

説教の後、パヌルー神父は病に倒れる。しかし彼は医者の診察を拒否する。彼の思想の帰結として病を神の意思として受け入れ、治療を拒否したのだ。その結果パヌルーは命を落とすことになるが、診察がなされなかったため原因がペストによるものなのかどうかは不明であった。

タルー 人は 神によらずに聖者たりえるか? 

タルーはオラン市がペストに席巻される数週間前に、この町にやってきた旅行者だった。

町が閉鎖されると、タルーは医師リウーに志願制の保険隊を組織することを提案する。

リウーはなぜ保険隊まで作り、危険を顧みずこんなことに首を突っ込もうとするのか、その理由をタルーに尋ねる。彼はなかなか答えようとしないが、最後に「僕の道徳」がそうさせるのだと吐露する。そして「僕の道徳」とは「理解すること」だというのだ

実はタルーはこの街でペストに出会う前から、「ペスト」に苦しめられてきたのだと告白する。ただ彼の言う「ペスト」とは病原菌のことではない。

 タルーの父親は次席検事だった。少年時代のある日、タルーは父親の仕事を見学するため裁判所を訪れる。しかし、そこで見たのは善良だった父親が被告人に死刑を宣告する恐ろしい姿であった。

彼は大きなショックを受け、次第に「社会は死刑宣告という基礎の上に成り立っている」と考えるようになった。そしてこの死刑宣告と戦うため、家を出て政治活動に参加するようになる。ところが「誰も殺されない世界」を作るための政治活動でも、やはり処刑が行われているといった矛盾に直面し愕然とする。

タルーは「われわれはペストの中にいるのだ」ということに気づき、心の平和を失ってしまう。

 そしてもう二度とペスト患者にならないために、人を死にいたらしめる一切のものを拒否しようする。

僕は、直接にしろ間接にしろ、いい理由からにしろ、悪い理由からにしろ、人を死なせたり、死なせることを正当化したりする、いっさいのものを拒否しようと決心したのだ

タルーにとって「ペスト」とは人の死を正当化する一切のことだったのだ。

タルーは世界を天災と犠牲者に分け、天災に与(くみ)することを拒否する。そして犠牲者の側に立つことによって、つまり人々を理解し「共感」することによって、心の平和に到達することができると考えた。

これがタルーが保険隊を組織し、命懸けでペストと戦おうとした理由だ。

ちなみに「共感」は英語でsympathyだが、語源はギリシャ語のsyn(一緒に)とpathos(苦痛 )からきている。タルーの言う「共感」を「一緒に苦痛を分け合うこと」だと解釈すれば、犠牲者の側に立とうとするタルーがなぜ「共感」という言葉を使ったのかが分かる。

さらにタルーは続けて言う。

僕が心を惹かれるのは、どうすれば聖者になれるかという問題だ。

タルーは神を信じていない。それにも関わらず聖者になるとはどういうことか?

彼が求めたの神を必要としないヒロイズムだった。

こうしたタルーの考えに対し、リウーは言う。

僕にはどうもヒロイズムや聖者の徳などというものを望む気持ちはないと思う。僕が心を惹かれるのは、人間であるということだ

ペストと対決しようとする同じ志をもつ二人だが、聖者となることを理想とするタルーに対し、リウーは人間の世界から、ただ誠実に自分の仕事をこなすことによってペストと対峙しようとする。会話から二人の考えの違いが見て取れる興味深い場面だ。

グラン 凡庸の中にある偉大さ

グラン冴えない下級役人だ。すでに高齢ではあるが安月給で出世の見込もない。売れる当てのない小説を書き続け、いつかは人々をあっと言わせるような作品を残したいというささやかな野心が、彼の平凡な生活を支えている。

そんな普通の役人グランが保険隊に参加する。彼は登録や統計といった地味な仕事で貢献するが、そこには何らヒロイズム的な要素はない。

しかしリウーは、この凡庸な人物に最も共感と敬意を表している

リウーはグランについてこう語る。

グランというなんらヒーロー的な要素を持たぬ男が、今ではそれらの保険隊の一種の幹事役のようなものを勤めることになったのである

もし人々が、彼らのいわゆるヒーローなるものの手本と雛形とを目の前にもつことを熱望するというのが事実なら、<中略>筆者はまさに微々として目立たぬこのヒーロー(グランのこと)  -- その身にあるものとしては、わずかばかりの心の善良さと、一見滑稽な理想があるにすぎぬこのヒーローを提供する

リウーはタルーの組織した保険隊には「ヒロイズム」を見いだせないと感じる一方、グランこそはヒーローにふさわしいと最大限の賛辞を送っている。

12月のクリスマスの夜、リウーとランベールはグランが店のショーウィンドウを眺めながら泣いているのを目撃する。

グランにはかつて結婚していた女性がいたのだが、すれ違いから別れてしまった苦い経験があった。彼は昔クリスマスの夜に彼女に告白したときのことを思い出して泣いていたのだ。

この場面はとても悲しい。ランベールが恋人の待つパリを目指して町から脱出しようと試みるのに対し、グランのような男には愛してくれる人など誰もいない。彼は一人の寂しさを小説を書くことで紛らわせていたのかもしれない。

グランはその場から立ち去ろうとするが、急にふらつき道に倒れてしまう。彼もペストに罹患していたのだ。

リウーとタルーはグランを看病するが、もはや回復の見込みは無いように思えた。ところが翌日に状況は改善し、幸運にもグランは一命を取り留めることになる。

このころから、今までであれば死の兆候と思われた症状を見せてきた人々が、奇跡的に回復するケースが増えていく。老医師カステルの血清が功を奏し始めて、ペストの力が弱まってきたようだ。

コタール ペストにより命を吹き返す犯罪者

人々が死の恐怖に震える中、コタールという男だけは違った。彼は犯罪者だった。もともと人生に絶望し、自殺未遂を図ったところを医師のリウーに助けられた過去がある。

ペストにより人々が分断されると、コタールは町の人々に愛想を振りまくようになり、生き生きとし始める。ランベールが町から脱出しようと試みた時も、親切にも仲間を紹介しランベールに手を貸そうとした。

コタールは嬉しくて仕方がないのだ。彼は警察から追われびくびくしながら生きてきた。もともと社会から疎外され、日陰者としての人生をおくってきたのだ。

だからペストで人々が社会から孤立すると、逆に彼は同類の仲間が増えたこように感じた。ペストが犯罪者を孤立から救ったという訳だ。

しかしペストの威力が弱まり社会が正常化するにつれ、コタールの精神は不安な状況に戻ってしまう。

ちなみに不謹慎ではあるが私もコロナになって喜んだ類だ。在宅勤務となりバカな上司の顔を見なくて済むようになったからだ。

ペストの終焉

ペストの猛威はようやく終焉を迎えようとしていた。町も次第に明るさを取り戻す。

ところがそんな中、タルーがペストに罹患してしまう。彼はリウーが見守る中あっけなく死んでしまった。更に追い打ちをかけるように最悪な知らせがリウーの元に届く。療養中だった彼の妻が死んだのだ。

2月になるとようやく市の封鎖が解かれた。オランから締め出されていた人々が戻り、駅は再会を喜ぶ人で溢れている。その中にはパリにいたランベールの恋人もいた。

一方町には銃声が鳴り響いていた。警察隊とコタールが銃撃戦を繰り広げている。彼はペストが収束し町が正常な状態に戻ると自暴自棄に陥り、部屋から通りに向けて銃を乱射したのだ。結局コタールは警察隊に引きずりだされ逮捕されてしまう。警官が彼を殴った音がリウーの耳に残る。

ペストは去った。町の群衆は歓喜の声を上げている。しかし医師リウーは彼らが知らないことを知っている。ペストは決して死ないことを。そして数十年も隠れて潜伏し、再び人々に不幸と教訓をもたらす機会をうかがっていることを。

感想

リウーのメッセージは何だったのか?

五人の登場人物がどのようにペストと対峙したのを見てきたが、主人公のリウーはどうだろうか?

リウーはこの物語の語り部でもある。そのため彼と五人の登場人物との会話からリウーの考えが浮き彫りとなる。

ランベールは恋人と再会しようと町から脱出を図るが、彼にとって重量なのは個人の幸福の追求だ。しかしリウーも療養所の妻とは離れ離れになっており、その点ではランベールと変わらない。リウーはランベールの行動に一定の理解を示すものの、彼自身は自己の幸福より医師としての使命を果たそうとする

パヌルーはペストに神の意図を見て取り、全面的にそれを受け入れることになるが、リウーはそんな神を拒否する。リウーにとって重要なのは不条理を受け入れることではなく、不条理に抵抗することだ。

タルーは人の死を許容する一切のものを否定し、神によらず聖者たらんとする。しかしリウーはヒロイズムにも聖者にも関心がなく、単に「人」であることを望む。そしてもしヒーローというものがあるとすれば、それはグランのような地味ではあるが誠実な人間であると考えている。

以上のことからリウーの考えが明らかとなるだろう。

彼は不条理に抵抗し、常に人間の側に与する者だ

仮に世界を襲う不条理が神の意図であったとしても、リウーは苦しんでいる人の側に立つであろう。それはヒロイズムではないし、抽象的な理念でもない。地に足をつけて、自分がやれることをやる。リウーは医師として誠実に仕事を遂行することによって、不条理に抵抗しようとしたのだ。

不条理はいたるところに存在している

日本でコロナが流行し始めたころ、小説「ペスト」はちょっとしたブームとなった。確かに現実とフィクションの世界にはいくつかの共通点が見いだせた。しかし「ペスト」を単に伝染病の話として捉えると、作者のメッセージを矮小化してしまうかもしれない。

カミュがペストを出版したのは第二次世界大戦直後の1947年だ。ペストとはヨーロッパで猛威を振るった戦争とナチスの隠喩だった。

小説の中でもランベールはスペイン戦争に従軍し、そこで理念が人を殺す現実を目の当たりにする。タルーは理想の社会を作ろうと政治活動に身を投じるが、その中でも人が処刑される矛盾に直面する。「ペスト」は人が人を殺す残酷な世界に対し、個々人がどう立ち向かい得るかという物語として読むことができる。

また不条理とはペストや戦争といった社会的な出来事に限られる話ではないだろう。我々は日常に中でもたくさんの不条理に直面する。いじめ、パワハラ、病気、貧困、犯罪被害・・・数え上げたらきりがないだろうが、中には個人の生命を脅かすものもあるはずだ。

我々は我慢ばかり教えられ、抵抗することを忘れていないだろうか?

不条理とは原因と結果が結びつかない状況であり、いたるところに存在する。そしてそれらに遭遇する事自体には何ら責任がなく、どう対処するかが問われるべきなのだ。

しかし冒頭で述べたように、人間は理由を求めてしまう生き物でもある。ゆえに説明がつかない出来事に直面した時、「自分に非があったのではないか?」と己を責めてしまう。特に日本人はその傾向が強いと思う。

例えば子供の頃、こんな経験がなかっただろうか?

クラスの友達が何か悪さをする。自分は何も関与していないのだが、たまたまそこに居合わせた。先生に見つかりゲンコツをもらう。自分は関係がないと説明し、鉄拳制裁に抗議しようとする。先生はこう言う。「口答えするな!人のせいにするんじゃない!」そしてもう一発ゲンコツをもらう。

今はそうでもないかもしれないが、私が育った昭和の教育はこんな感じだった。こんな不条理を何度も経験すれば、しだいに抵抗する気は失せ、嵐が過ぎ去るのをただ待つようになる。

部活動でも教師や先輩の理不尽なしごき、時にはいじめに耐えることを徹底的に教え込まれる。我々は耐えることを大人の対応と思い込むようになり、抗議することを「わがまま」と捉えるようになる。だから不条理に対する日本人の耐性はやたらと強い。

実は「抗議する、抵抗する」というのも立派な技術なのだ。しかし家でも学校でもこれを教えてくれる人は少ない。こんなことを教えて子供たちから一斉に抗議されたら大人たちは面目をつぶされ、教育は成り立たなくなるとでも思っているのだろう。

抗議する意思を失った若者は、政治に関心を失い投票所に行かなくなる。

彼らは「よい政治家がいないので、投票したところで何も変わらない」と言う。ところがどの政党が何を公約に掲げているのか、知ろうともしないのだ。

その結果、社会は何ら変化することなく次第に水は淀んでいく。悪臭を放っているのに、それにすら気づかない。

ペストはいたるところにいる。我々はそれに慣れすぎていないだろうか?

淀んだ水を浄化するため、抵抗の技術、反抗の言葉を身に着ける必要があったのではないか?

小説を読んでそんな事を考えた。